株式会社エス・エヌ・テーは2016年に創業100年を迎えました。
私共エス・エヌ・テーがいつ誕生し、どのような変換にて現在に至ったのかについて思いのままに綴りました。
篠田商店創業から篠田紙工(株)へ
一章 新しい物好きだった初代・篠田太吉
初代 篠田太吉は明治生まれです。
祖父の思い出は沢山ありますが、小さい頃から何かあると手を引っ張られ、連れて行かれました。
(おそらく後継ぎとして洗脳したのではないか。例えば理屈抜きに中日ファンになっていたと同じように)いろいろある思い出の中で、こんなことがありました。昭和20年代の方はお分かりのように、プロレスに代表され空手チョップの力道山がめちゃめちゃ強い時代に、テレビが家にあったことです。
当時としてはとても高い物で、今思えばよくも買えたのものだぁーと思います。 仕事にはとても情熱的で仕事に厳しい人でしたから、買えたのでしょう.(でも結構新しい物好きであって、結構無理?していたのかもしれませんが。)
祖父の写真を見ながら思い出しています。
二章 前身は畜産農家
初代 篠田太吉は、岐阜の生まれです。紙や古紙の関係の会社は、この岐阜出身の人が多いです。理由はわかりませんが、岐阜は家庭紙メーカーや、こうぞ、みつまたで和紙を作ることが盛んであったからかもしれません。もったいない精神で紙類を大切にしていたのでしょう。
新幹線岐阜羽島駅から近く、木曽川沿いの畜産農家の出身で、3人兄弟の次男として生まれました。
よく小さい時、夏休みになると遊びに行ったものです。周囲が木で囲まれ、入り口を入ると井戸があり、 その右奥が大きな家、井戸のすぐ左側がニワトリ小屋、そのずっと左奥に牛舎があり 田んぼ畑があったような記憶です。ネコも犬もいましたね。 何ともいえない臭いとハエにはまいったものでした。
三章 大きな屋敷に動物達とにぎやかに暮らす。
太吉が生まれたのは大きな屋敷であったから、子供なりにすごい家だなと思ったものです。
田や畑、牛、鶏、ネコ、犬の動物達、自然がそのまま「家」という囲いの中に無理なくおさまっている感じです。
そんな環境の中で育った祖父だから骨太の逞しい体と心をもっていたと思います。
今では想像もつかないぜいたくな環境だったのではないでしょうか。鉄筋コンクリートもない。
アスファルトもない。車も少ない。公害もない。目にまぶしいほどの空の青さ。入道雲。夕やけのあでやかな色めき。
自然を体一杯、胸一杯、あたり前に受け入れることができた時代に育ち、名古屋へ足をふみ入れたのでした。
四章 品の良い名古屋言葉を話す祖母
残念ながら名古屋へ足を踏み入れた頃のことを記憶にとどめていない。
ただわかっているのは篠田家へ養子として入り同様に養子縁組で祖母と結婚した。祖父も祖母も篠田家へ養子として夫婦となった。
【写真:祖父・太吉と祖母・とめ】
あわせて祖母のことの記憶はとても品のよい人で上品な名古屋弁というより名古屋言葉をしゃべる人であった。語尾に「・・・なも」とつくことが多い。きれいであった。今では名古屋弁として「・・・だがね」「・・・だがや」と伝わっているが。
岐阜生まれの祖父と名古屋育ちの祖母がこれから篠田家をついであらたなスタートをするのであった。明治から大正へ時代はすすんでいる
五章 気骨あふれた明治の人・篠田太吉
結婚し名古屋に所帯をかまえることになった。養子として篠田家に入り、8人の子供がさずかった。
明治から大正へ。私の父は8人兄弟姉妹の中で3番目、男兄弟では2番目。過去帳をみると、兄と姉そして弟をなくしている。 病気や生まれてすぐになくなったと聞く。
この物語をすすめめていくにつれて、その後ろにある時代背景も気になる。私が生まれてなかった時代の人々の思想・思考・生活文化はどの様であったろうか。そんな時代に紙のそれもリサイクルがあったわけだから。明治と大正と昭和の時代は、発展と戦争と平和が錯綜するイメージがある。
祖父(初代)はどちらかと言うと明治気質・明治気骨そのままで、初代のパワーをむきだしに、いけいけどんどんであったと思う。
六章 二代目父は寡黙で温厚な人
父(2代目)は大正時代の気質かどうかはからないが、人間性が反映されている。とても温厚であり、辛抱強く、あまり多くを語らない。
戦争で満州にいたときいいている。明治生まれの派手さはないが、いささか遠慮ぎみであったように感じる。祖父が攻撃の人であれば、
父は守備の人であって、確固たる信用を築きあげた人でもあった。業界内や関連する方面から祖父の話題は多く、父は地味でかくれた存在である。
でも、祖父を支え地盤強化に力をそそいだのは、言うまでもなく父であった。
七章 働の祖父、静の父
祖父は小さい時から私をひっぱりだしお客様やいろいろな会につれていかれた。
本人は何かもわからない。ただご飯を食べさせてもらうこととか、新幹線のこだまによく乗せてもらった。
日ごろよくしゃべるがこれといって私に多くは語らなかったが、よく働く人であった。運命は動きの中にあると言われるが、とにもかくにもよく働いた。そして仕事が大変好きであったと思う。一方、父は祖父に比べ口数は少なかったと思う。でも大好きな酒が入ると「今日という日は二度と来ない」と言って上機嫌になる。祖父に対して父は動きは静かであったが、それはそれは頭の低い人であった(45度近くまで)。そして人の悪口はまず言わないし言うことが嫌いであったと思う。
【写真:父・武夫と母・鈴子】
では私はどうかと言えばこれからの続きとして。
「子は親の背中を見て育つ」と言う。まったくそのとおりであるが、今、現在はどうであろう。
聞いた話であるが「父と母それぞれの役割は何か。」
『父は精神を母は現実を教える、そして糸にたとえれば父はタテ糸、母はヨコ糸の役割である』と。
八章 篠田商店から篠田紙工(株)へ
正直、親切がベースに築き上げてきた。そのままの人が2代目の父であったが、戦後、祖父の仕事を受け継ぎながら、新たに紙の卸商の看板を持つことになる。
篠田紙工株式会社の誕生である。
大正5年に篠田商店として、リヤカー1台からスタートし、昭和28年に篠田紙工株式会社に商号を。
・故紙(今は「古紙」と書く)
・紙断裁業
・紙の卸販売が営業種目になる。今でいうなら、紙の製造はしていないが1つの循環がつくっていたと思う。原料から紙生産に利用、使用されできた紙を切ったりはったりとお客様の希望する寸法に断裁、販売していく。2代に亘り、事業の構築をすすめていくのであった。
エス・エヌ・テー誕生物語
一章 篠田紙工のスタートは和紙の再生
私共 株式会社エス・エヌ・テーは2016年に創業100年になりました。初代明治生まれ、二代目大正生まれ、現在は三代昭和生まれです。初代が事業を興した時、紙を主体として回収、再利用の商店(会社)は弊社以外に数件(2件?)ときいています。 同時として創業大正5年。この年何があったか記憶にありません。
いろいろな想い出の中で祖父が夜なべして、和紙でできた厚い綴り本を一枚一枚めくりよリわけている姿です。当時はすぐ横にある堀川運河から船ではこばれた紙類をひきあげて倉庫に搬入したんだときいたことがあります。
三重県等から船便をつかって運びこまれたのです。このころの和紙ですから 機械抄きでなく 手抄きの和紙であったと思います。
この和紙がどこへもちこまれ どうやって再利用したのか記憶がはっきりしませんが岐阜県方面だったような気がします。
株式会社エス・エヌ・テーに社名を変更したのは平成3年です。
社章(マーク)は太陽と月を(陽と陰)つかってS字をもじっています。それまで永い間使われ、親しみをもたれた社名から篠田紙工株式会社です。
リサイクルをしているのになぜ篠田紙工なのか、初代のスタートはたしかに和紙を主とした再生再利用の仕事からスタートしたのですが。
二章 故紙の誇りを受け継ぐ
祖父が夜なべをしながら、紙をよりわけていた姿はたしかに小さい時の私には印象深いものがあります。
ところで この紙はその当時では高級な とても上物の紙(=和紙)です。
この4月に私の父(2代目社長)の13回忌にて おじ達に話を聞いたところ、 法務局からでたものだったようです。当然契約書をかわし、厳しく管理されていたと思います。そして このよりわけられた紙原料は どこに使われていたのか、岐阜方面の製紙メーカーと勝手に考えておりましたが、よくわかりません。資源の少ない日本だから、ものを大切に もったいない精神で大事に大切に手のぬくもりのあるリサイクルがされていたのでしょう。
今、機械化はされたといっても人の手を省いてできる仕事ではありません。きびしい目と手の感覚によって有効利用されていたのでしょう。この精神と心はいつまでも持ち続けていたいと思います。「おじいちゃんが選別したしている紙は紙屑ではないんだ。
パルプが第一原料とすれば古紙(以前は古ではなく故と書いた)は立派な第二原料だぞ。」これを誇りに思います。
三章 グローバル化進む紙原料
さて、「紙原料が立派な第二原料」と言いつづけた祖父の時代から2代目の父の時代を経過し、バブルの前には立派に紙原料の主たる位置づけになっていたように思います。
ただ現在のようにグローバルになり紙原料もどんどん中国やタイ等に輸出されこのような時代になると誰が考えたでしょうか。やはり衣食住の生活基盤がアメリカから日本、日本から中国へと生活必需品の生産工場が時とともに移りかわってきたことや資源の少ない日本がまさか輸出するまでになったというのは、生活のレベルの向上と価値観の変化、世界との情報網のひろがりで早くなり情報量が格段に増えたことが大きいのではないでしょうか。明治、大正、昭和と三代に受け継がれているのですが、それぞれの時代の背景・戦争や産業革命・バブル・少子高齢化等、紙原料の移りかわりは多かれ少なかれ、影響を受けつつ変遷してきました。紙の歴史だけの話でなく、明治の時代、大正の時代、昭和の時代、そして現在とも比較していけばもっと興味深いことになりそうですね。
四章 不易流行の大切さ
祖父が「紙原料は立派な第2原料」と言いつづけたことが、そのとおりになりました。とかく紙原料は売れれば商品、売れなければただの紙屑と言われつづけてきました。数量や価格の決定権は、我々業者(会社)になく、川上である製紙メーカーにより決定されます。
ですから、あまれば価格をたたかれ、不足すれば価格が高騰し、波の多い乱高下の激しい業界です。でも中国市場のおかげで、価格のおちつきができ素材としての立派な原料として、認識がされました。
グローバルになったのです。
中国市場がどんどん拡大するにつれて、社会環境や経済環境はどんどん変化し、所得の向上もあり、生活基盤が確実に上昇していきます。生活基盤が確実によくなれば、中国国内に素材としての原料の回収・リサイクル率も向上していきます。
(中国の現在回収率35%前後で、06年には39%に)
益々変化をつづける中で、祖父が言いつづけたこと、それうけついで父がやりつづけたことは、すごいことだなとしみじみ思います。
不易流行という言葉があります。
「不易とは変わらないこと、かえていけないこと 流行とは変わること、かえていかないといけないこと」
グローバルになっていく現在。ITによって世界が近くなってきた今、まさしく会社の経済哲学と、お役立ちに対する姿勢に、不易流行の思想が確立されていて、すばらしい素材産業の1つとして軸のぶれない会社に成長したいと強く念じ、実現にむけてすすんでいく覚悟です。
五章 イメージの払拭をめざす
「紙原料は立派な第2原料」という考え方が底辺にあり、その根本思想がぶれずに進めていくことは、そんなに簡単ではありません。
なぜなら、売れれば商品、売れなければタダの屑という考えになりやすいからです。でも世の中の流れがどんどん変化し、売れている現在は商品という状況です。ではその反面、リサイクルするために回収する現場はどうなっていますでしょうか。皆さんは「紙のリサイクル」って、聞いた時どんなイメージをもたれるでしょうか。
これからの良い仕事ですね。
儲かっているでしょうね。
時代にマッチした環境ビジネスですね。
あ、あのチリ紙交換でしょ。 子ども会の回収のこと。
等々・・・・・とても両極端ですよね。
私共からみると、まだまだイメージが、きつい、重い、暗い、があるように感じられます。いかがでしょうか。
私の見方が片寄っているのでしょうか。名古屋市は学区協議会方式で集団回収と同様に定期的に回収するとりくみをしていますが、回収する人々の姿をみてどう感じられるでしょうか。きつい、大変な仕事だけど、元気に明るくやってもらって気持ちよいと思われる方々はどれくらいいらっしゃるかわかりませんが、そのように思っていただけることを信じたいと思います。
結論を申し上げれば、もっともっとイメージを良くして、これからの若いパワーがこのリサイクルという業界、業種にどんどん注入された時、注入してきた時、もっともっと道が拓けてくるような気がします。
やりがいと誇りと信念がもてて次の世代へ引き継ぐことができることを、あわせて望んでいます。そんな愛情で仕事をやっています。
六章 もったいない精神の啓蒙を続ける
やりがいと誇りと信念を持って次の世代へ引き継ぐことができることを望むものとして、
初代、二代は、時代の流れにいかに対応、対処してきて現在にいたったということになります。
明治の時代、大正の時代、昭和の時代、そして平成の時代、二つとして同じ環境の時代はありません。
今はグローバルの影響、ITの拡大、そして少子高齢化、デフレともう四方八方からいろいろな要素が入り込み、からみあっています。日本の経済成長と、紙の生産量の変遷とあわせて、紙の再利用はすすみ、回収率は60%以上になりました。大変な変化です。驚くべきことです。
人は物理的に豊かになりましたが、精神的に貧しくなったと思います。
ものをだだくさに使ったり、適当に捨ててしまったり、お金をかけたくないから不法に投棄したり、焼却したり。数えきれないほどあります。
きっと想像するに、明治や大正、昭和の初めには、考えられなかったことと思います。世の中の変遷とともに、生活様式がかわり、リサイクルやもったいないと考えることにも大きな変化があったのでしょう。
コツコツとローテクな仕事をしごく当たり前のこととしてうけとめ、 もったいないもったいないの精神(心)で仕事をし、事業化していったのでしょう。成長していく助走の時代から、成長がとまり、それまでのひずみをうめる、修正する時代は、物や人に対する考えや方法もかわってしまったと思います。
七章 利害ばかり追い続ける現代社会
コツコツとローテクなしごとを、至極当たり前のこととして受け止め、もったいないもったいないの精神(心)で仕事をし事業化していった時代から、何でも手に入り豊かに物を選択し購入できる時代になりました。
リサイクル・リユース・リデュースの3Rを考える時、まさしく生活者の生き様が形を変えて地球環境に影響を与える感じです。
まさしく時代の長い流れ、変遷は、物質的に豊かになればなる程地域に密着し、地域参加を促し協力しあい、共に生きていく環境づくりが大切になってきます。
しかし、残念ながら明治・大正時代にはあった、世のため人のため資源を大切に有効に再利用することの大義が薄れ、大声で口をそろえて言うものの利害ばかりが優先し、地域社会の密着がうまくいかず、地域参加をもっと啓蒙的に行われ、自主的参加の社会形成が遅れ、かたや不法投棄かたや量拡大の競争激化で、未だ一番貢献度の高い地域回収の方々の生活安定と向上ができずにいるのです。
今だからこそ新聞が何に再利用されているか、雑誌・段ボールも同様に何に再利用されているかが沢山の人々に理解されてきているとはいえ、この業界このリサイクルに関る我々の歴史から見ると、何か虚しい気がします。
長い歴史の中でこれだけ地域やいろいろな会社に関ってきたにも関らず、
古紙そのものの理解と知識が少なかったことに驚きを隠せません。
八章 環境問題を犠牲にした豊かさを憂う
長い歴史の中で地域やいろいろな社会にかかわってきたにもかかわらず、古紙そのものの理解と知識が少なかったことに私たちはもっと気づくべきでしょう。
江戸時代には生活の中で自然に物を大切にし、利用できるものは利用するという生活文化があったのでしょう。
それが明治・大正と受け継がれ、昭和の終戦後から復興・高度成長(例えば日本列島改造論)へと進み右肩上がりでバブルを迎えました。この間生活向上にばかり集中し、環境問題はおきざりにされてきたのです。
今の中国が同じではないでしょうか。又厄介な廃棄物を混入して輸出してしまうことまで招きました。
テレビでも放映されたように、中国や東南アジア諸国、中近東等、日本から西側の国々では鉄屑や紙屑ひとつでも捨てるところがないくらい利用されている場面を観られたと思います。人口のなせるわざとは言え、生活資金を稼ぐためとは言え、派生する環境問題はやはりこの国々でもおきざりに、犠牲にしているのです。
やはり21世紀は環境の時代と言ってよいのです。
九章 創業100年を迎えるに当たって
私共エス・エヌ・テーがいつ誕生し、どのような変遷にて現在に至り、明治・大正・昭和と社会の動向や経済の動向、そして人々の意識の変化について想いのまま書き進めてきました。
2016年に創業100年となり、三代目である私にとって、大きな目標であり、節目であり、とても励みになります。
紙の媒体も、これからブロードバンド・IT社会にどう変化するのかとても大切なテーマですが、そのテーマを意識しつつ、これまでの時の流れを遡ってみたいと思います。 そして私共の可愛らしい会社であっても、これまで社会に業をさせていただいた存在意義、また何かきっと世の中に影響を与えたから存在があったものが、きっと知らず知らずの内に培われてきたと思います。 その何かを求めてこれから進めたいと思います。 その何かが次の100年に向けて、更なる安定・成長する企業の文化・風土になると信じてやみません。
歴史は人の生き様と思想の年表と思います。
不易流行という言葉があります。きっと不易=変えていけないことをずっと守り続けたのでしょう。これがきっと我が社の強みでもあるかもしれません。歴史は人の生き様と思想の年表であり、その延長がこれからの時代につながっていきます。世の中に影響を与えつづける企業に向かって。